2006年 11月 23日

IMAGE


はじめにしっかりとしたイメージを設定し、それに向かって進めていくこと。作業を進めていく中で、様々なアイデアに揺り動かされるとなかなかうまくいかない。完成から逆算してプロセスを踏まないと、失敗することが多い。版画の話である。もちろん例外はどんな場合でもある。

また、失敗から学ぶことが多いのも版画。これは版画に限ったことでもないけれどね。













2006年 11月 20日

影 響


制作するにあたって、誰に影響を受けたかと問われれば、今まで見てきたもの、聞いてきたもの、読んできたものすべてのものに影響を受けてきたと答えたい。 それがどんなにオリジナル性の強いものであっても、作品は個体では絶対に成立しないと思っている。個人史の中に限っても次の作品は今の作品の影響のもとに 作られるものだ。













2006年 11月 20日

TITLE


例外をのぞいて先にタイトルから決める。版画やオブジェの制作の話です。版画はすべて短い単語を英語表記すようにしている。たった一言であっても、そこか ら深くイメージを見つけ出せるような、タイトルをと考える。これが意外と厄介で、結構悩む。オブジェの方は二語文以上のもう少し、イメージを限定するよう なものになる。版画のときより、作品とタイトルがもっと密接につながっているような気がする。こちらは原題は日本語表記と決めている。













2006年 11月 17日

単純なこと


作品は技術によってのみ生み出されるものではなく、思考とそれを支える技術によって生み出される。だから、作家はつねに何を考えているとか、どう生きているとかが、かなり重要になる。

若い頃はそんな単純なことさえも、なかなかわからなかった。

ただし、その単純なことが難しい。













2006年 11月 13日

TEENAGER


音楽でも美術でも感受性の一番敏感なティーンエイジに出会った作品は一生忘れない。

もちろん出会うとは感動を伴った出会いのこと。

自分の未来は無限に続くと思い、夢だけで生きていた。

そんな若い人たちにも共感される仕事をしたいと思っている。













2006年 11月 08日

278


もう35、6年も前のこと。

鎌倉にあった古本屋で、チェンニーノ・チェンニーニの「芸術の書」と出会う。中村彝の訳で、初版1300部の限定本。手に入れたのはエディションナンバー278。中村彝の大ファンだった僕は、本が呼んでくれたとさえ思った。

今から思うと、あの限定本を持った喜びは、版画を所有したときの喜びと似ているかもしれない。













2006年 11月 01日

AI-MITSU


若い頃、靉光の自画像が見たくて、竹橋(東京国立近代美術館)に何度か足を運んだ。

自信に満ちた面構え。デフォルメされた首から胸。圧倒的な強さ。靉光の他の作品はそれほど興味を持つことはなかったのに、あの自画像だけは別格だった。

竹橋の常設で一点挙げよと、問われれば、僕は間違いなく靉光を選ぶ。













2006年 12月 07日

MESSAGE


メッセージは一つあればいい。技法もできるだけ一つでよい。いろいろやりすぎるといったい何を言いたいのかわからなくなる。短い言葉にも示唆に富んだ言葉があるように、意味のない美辞麗句、装飾はできるだけ省く方がよい。でも、意外とそれが難しいのです。













2006年 12月 06日

伝達


作品の目的を、情報の伝達だけに置くとしたら、情けないものにしかならないと思う。作品とは見る者に何かを伝達するように作られているのだけれど、媒体と しての役割を越えたところの動かざる事実として、そこに存在する。その圧倒的な存在の事実が見えたとき、いい知れぬ感動をともなう。













2007年 04月 28日

WORDS


創作に関わる者はその表現方法がどのようなものであっても、動機は言葉から始まる。ひとは必ず言葉を介して思考するのだから。言葉から形が生まれるといっ ても過言ではない。声に発しなくとも頭の中で言葉がうごめく。ことばが徐々にかたちをなしていくような感覚だ。だから、すぐれた表現者はいつもことばを大 切にしている。

In the beginning was Word.













2007年 05月 05日

SKILL


6月の個展には未発表オブジェと共に新しいphotopolymer gravure(感光性ポリマー樹脂版画)を見せます。新しいphotopolymer gravureは今までと少し違った仕上がりで、雁皮刷りのような技法を使用しています。絵の中にもう一枚茶系の紙が張り込んであります。銅版のように水 の中で雁皮紙を貼り込むことは水溶性のポリマー樹脂では不可能で、それなりに新しい技術の開発が必要になりました。作品作りは新しいものを作ろうと思うと 新しい技術が必要になります。それがまた面白いのです。













2007年 06月 26日

厳しさと暖かさを兼ね備えます。


フォトポリマー・グラヴュールは凹版画なので、刷り行程は銅版画と全く同じです。ただし、銅版画は版を温めることによって、固いインクを柔らかくしながら 詰めて行くのに対して、樹脂版は加熱ができないのでインクをあらかじめ、かなり柔く練っておく必要があります。しかし、ここが結構微妙なところで、柔らか 過ぎるとインクがベトッとなってしまい、シャープさにかけてしまいます。柔らかくなると暖かさは出てくるのですがキレが失われます。あまに油の加減と練り 作業が職人仕事です。大して面白くもない話でした。













2007年 06月 25日

表記はフォトポリマー・グラヴュール


ソーラープレートという名称が、なんだか日光写真のようなイメージがして、今ひとつしっくりこないような気がしたので、僕はその版画をフォトポリマー・グ ラヴュールと呼ぶことにした。海外ではこう呼ばれることも多いように思うのだが、名称はさておき、フォトエッチングの代わりに始めたフォトポリマー・グラ ヴュールだったが、やってみると銅版とは全く違った種類のものだった。新しい技法は新しいイメージを生み出すものです。













2007年 06月 12日

シェフはレシピを教えません


作品について、滅多に話すことはしないのですが、展覧会中に問われればできるだけ答えるようにしています。本当は好きなように見ていただければ良いと思う のですが、これもアーティストの義務だと思い、拙い言葉ですが、できるだけ分かりやすく説明するように努力しています。ただ、料理で言うところのレシピの ようなものを求める方もおられるので、その辺りは申し訳ないけれど適当に答えるようにしています。細かい材料や技法は言葉だけでなかなか説明しきれないも のですから。













2007年 07月 28日

勘は頼りになりません。


イヤになるほど暑い日が続きます。あまり暑いと、仕事のペースも確実に落ちます。これからは早朝か、夜に仕事の時間を持ってこなければと思います。実は銅 版画を腐蝕するときの腐蝕液の液温も微妙に制作に影響してくるので気を使うところです。丁寧にやるときは、液温や比重なども計ったりします。慣れてくると 勘だけでやってしまうので、失敗の原因にもなります。













2007年 07月 26日

下ごしらえに手間がかかります。


新しい作品を作る時、それも版画の場合のようにいくつもの行程を踏まなくてはならない時は、テスト版をつくり、データを出さないとなかなかうまくいきませ ん。カメラマンが本撮りの前にポラロイドで撮ってみるのとちょっぴり似ているかもしれません。全く同じような作品を作るのでしたら、経験と勘で済むので しょうが、少しでも、新しいことをしようとすればいくつもテストプレートを作らないと失敗します。版画制作はイメージに向かって方法論を解き明かして行く ような作業が鍵を握っています。と言っても、方法論だけでは完成しないところがおもしろいのですが。













2007年 07月 25日

版のお仕事。


「写す」ということだけにとどまるものはたんなるPrintで終わってしまう。版を通した時の、版のリアリティを物質感の強いインクを使って提示する。モ ノの存在感が人の死生観にまで昇華していく。その辺りのことをいつもぶれないように仕事をしたいと思っている。版画の仕事はなかなか奥が深くて、やりがい があります。













2007年 07月 20日

お金がないのにお札はいっぱい


若い頃、エッチングの刷りに使用する洋紙が高くて買えなかったので、和紙の中で一番安い機械漉きの「局紙」を使用していました。局紙とはお札に使用する紙 で名前のルーツは大蔵省印刷局の局です。鳥の子紙の一種ですが版画用はかなり厚くて丈夫です。なんといっても値段が安かったので使用していました。風合い は味も素っ気もないツルツルです。色はもちろんお札の色です。お札の紙に刷っていたのに、全然お金にはなりませんでした。(なんだかなぁ)













2007年 09月 15日

二人か三人いればいい


100人中100人の賛同を得るような作品はあり得ない。かといって100人すべてに理解されないのも問題があるのだろうし、やっぱり寂しい。目指すとこ ろは100人中2人か3人といったところではないだろうか。もちろんもっと多い方がうれしいけれど、世の中そんなに物好きはいないでしょ。そんなわずかな 人たちの言葉に励まされて今日も作品を作り続けているわけです。













2007年 09月 14日

最小限の情報からでも


たとえば豪華なオーディオルームで聴くレコードではなく、手のひらに乗るようなそれもガーガーと雑音がいっぱい入るようなトランジスタラジオから聴こえ てきた音楽に胸が締め付けられた少年時代の経験のような。たとえば新聞の片隅に載った小さなそれもドットの荒いモノクロ写真の美術作品に目が釘付けになる ような。最小限の情報からでもその人の琴線に触れるような、そんな作品を作りたいと思っている。たぶん本物とはそういうものだろうと思う。













2007年 09月 10日

版画のマジック


ダイレクトにペインティングで表現すると、たいしたことないものでも版を通すと断然良くなることが結構あります。本人の実力を超えて版の実力(?)とでも 言おうか、イメージと版表現がピタッとはまると本当によいものが生まれるときがあります。版の怖さでもありますが。ただ、長いことやっていると版のマジッ クはそれほど期待できません。こんどは版の必然性みたいなものが重要になってきます。なかなかややこしいものです。













2007年 10月 24日

何もせずじっと立ち止まる時間


たえまなく作業を続けると制作が進んでいるようで、時としてその逆のことが多い。作品制作中忘れがちなのが立ち止まって熟慮する時間を持つこと。手を加え るのではなく、いかに手を入れず、崇高なる精神の痕跡を残すこと。ただそんなことに気づくのには徹底的に作業を繰り返した後でないと気づかないもの。

今日そんなことを思いました。

もう一度やり直し。













2007年 10月 22日

Artist と Artisan


自分の中にいるアーティスト担当と職人担当がうまく連携したとき、よい作品ができると思っています。どちらが主導権を持った方がいいかは悩むところです が、やはりそこはお互いによく立場をわきまえて尊重し合うべきでしょう。アーティストの情熱と決断がなければ作品は生まれないでしょうし、職人の技術がな ければ形にならないのも事実です。

版画制作の話です。













2007年 10月 09日

情熱だけではどうにもならないものがある


新しいものを作ろうとすると新しい技術が必要となります。新しい技術を習得するには修練が必要になります。修練には忍耐と情熱が必要になります。毎日毎日 研究室で新たな発見を待ち望みながら顕微鏡を覗き続けている科学者のような忍耐力と情熱が必要です。ひらめきだけでは解決のできないものが、もの作りには 必ず付いてきます。そして、情熱的な思い込みを客観視できる冷静な分析力のような知性が絶対に必要です。

今日作ったものを明日もう一度冷静な目で眺めなければなりません。













2007年 10月 03日

結末に向かって。


ある一つの結末に向かって書き進めていく小説家の仕事に似ているかもしれない。版画を制作しているとたまにそんなことを思うことがあります。書き始めてい るうちに「主人公が勝手に動き始めることがある」なんてことも時々聞きます。似たようなことがない訳でもありません。制作途中で想定外の面白さもよくあり ますので。最後の一行(一筆)に向かってパズルの断片を組んでいくような作業もおそらく似ているのかな。なんて勝手に思っています。













2007年 11月 03日

Art Critic


客観性を持つこと。自作を判断するときこのことが一番大切なのですが、これがまた一番難しいのです。人様の作品は一目瞭然でその良さも欠点も判ってしまう のに自作に関しては全く判断が甘くなります。客観性を持てないのがその理由です。心を鬼にして突き放して見れるようになればいい作品ができるのですが。以 前、アーティスト担当と職人担当の必要について書きましたが、作品作りにはもう一人評論家担当も必要だったりする訳です。













2008年 01月 29日

版画の戸籍簿


版画を作ったら、そのデータを記録する用紙に必要事項を記入します。用紙といっても市販のものがある訳もなく作家がそれぞれ工夫をして作ることになりま す。制作年やエディション記録等を記入していくものです。いわば、版画の戸籍簿のようなものです。ちなみに僕の記録簿は、通し番号から始まり、タイトル、 日付、サイズ、エディション、版材、技法、用紙、インク、価格、発表、収蔵、それとエディション記録と制作記録などが記入できるようになっています。あと 作品写真が添付できると完璧です。どこへお嫁に行ったかまでの消息は分かりませんが、何部刷ったかは記録しておかなければ大変なことになります。いわば限 定出版なので面倒ですがやらなければならない作業の一つです。













2008年 01月 09日

ワタシま〜つわ


版画を作っている間には待つ時間が結構あります。露光をしている間。現像している間。紙を湿し寝かしている間。腐蝕液に浸けている間。インクを詰めるため 版を温めている間。それぞれ時間の差はありますが待つのも作業の一つです。待つ間の必需品はタイマーと文庫本です。タイマーをセットして待つ訳ですが、用 意する本は面白すぎると問題があります。時間を無視して読み続けてしまうからです。どんなに面白くてもタイマーのブザーが鳴ったら直ちに本を閉じる勇気が 必要です。













2008年 01月 04日

志高く、妥協せず。


日常を離れること。

制作に迷いはあっても完成された作品には確信を持つこと。

そして何よりも自分の仕事に誇りを持つこと。 


暮れから疲れているせいもあってか、くだらない人間関係に辟易していたのですが、歴史に残された偉大な作品に思いを巡らせていたら、作品を作り出すこと以外はどうでもよいと思えるようになりました。良いものを作りたい、ただそれだけです。













2008年 02月 27日

作家のお仕事


一編の優れた小説が時に読者の人生観を変えてしまうように、一点の優れた絵画には人の心を揺さぶり続ける力があります。でなければ、世界中の美術館に何億 人もの人々が訪れたりはしません。作家の仕事とはそういうことに多少なりとも関わることなのです。もちろん、本人が意識するか無意識かはケース-バイ- ケースです。

いい仕事をしたい。それだけです。













2008年 02月 19日

素直じゃあ〜りません。


「第一級の知性は、二つの相反する考えを同時に持つことができ、その矛盾に影響されずに正しく機能することができる。」(スコット・フィッツジェラルド)


  一級か二級かは分かりませんが、ある一つの考えを聞いたり、自分で一つの答えにたどり着いたりしたとき、反射的にまったく正反対のアプローチを導きだそう とする癖があります。まぁ、簡単にいえばあまのじゃくということです。一つの答えに「右へならえ!」なんて生き方ほど退屈なことはないですから。













2008年 03月 04日

しかっている訳ではありません。


作者の思い入れが強ければ強いほど作品の純度は高まる訳ですが、第三者はそこに入る隙を見つけられず、戸惑うことが少なくありません。

先週末終わった個展で発表した新作はまさにそのようなものでした。つまり、妥協しない作り方は強すぎてあまり売れません。まぁ、美術館には何点か入ったので、良しとしましょ。

伝え聞いた、あるコレクターの新作を見て言った言葉が印象的でした。「しかられているみたいだ」と言ったそうです。(深ヨミ!!)













2008年 04月 25日

実に厄介な問題です


たとえば版画作りを長いこと続けていると、その版画技法の妙にはまってしまうことがあります。職人わざといっても良いかもしれません。それらは否定される ものではないし、作品の純度を上げるには、確かに必要不可欠なことではあります。ただ、そこで陥りやすいのが自分はいったい何を表現したいのかという、最 も根源的な問題意識を錬金術師的な技術の高さの獲得で充足してしまう感覚です。

簡単に言えば、技術がなければ作品にならないのですが、技術だけがあってもだめだということです。実に厄介な問題です。













2008年 04月 23日

版画の魅力は、、、


版画を作りたくて版画を作っている訳ではありません。版画でしかその表現が成立しないので結果として版画を作っているのです。版画の魅力とはイメージの 定着とそのイメージの物質化であると思います。イメージの定着と物質化は魅力です。例えば、闇は闇でなく闇を暗示するモノとして、そこに出現してくる魅力 です。うまく行ったときは鳥肌が立ちます。人に伝わるかどうかは二の次です。まずは自分に正直であることと、美術史に作品を照らし合わせて見ることです。 版画以外の視点から版画を見ることです。そうしないと単なる趣味的な口当たりの良いインテリアにしかならないからです。













2008年 05月 15日

問題は光です。



問題は光です。

どう扱うか

その違いが

作品に反映されます。













2008年 05月 14日

コクがあって切れがいい


銅版画のインクにはとてもこだわります。

まぁ、インクと紙ぐらいしかこだわるものがないですからね。

一口に黒と言っても、気に入った色を出すにはそれなりに神経を使うわけです。

基本はコクがあって切れがいい、というものです。

なにかのコマーシャルみたいですが、これが意外と難しくって。

コクというのは深みで、切れというのはシャープさです。

闇の中に吸い込まれていくような黒が理想です。













2008年 06月 23日

その先へ進むための時間


 解決しなければならない問題や、

 決断しなければならない事柄がいくつか重なり、

 すこしばかり落ち着かない日々が続いています。

 早く平静な日常に戻りたいと願っているのですが、

 まぁ、長いこと生きていればいろいろあるのも仕方のないことです。

 もっとも、自分自身を取り巻く状況が変化したところで、

 アイデンティティーを失う必要もなく、

 ただやるべきことを黙々と進めていけばよいわけです。

 ものを造り出す者に与えられた何者にも奪われることのない自由です。


 変化は新しいものに会える喜びに変えればよいのです。













2008年 08月 27日

写真 あと一枚


告白します。

実は、カメラのこと全くわかりません。

露出がどうとか、シャッタースビードだとか。

恐ろしいくらい無知です。

撮るのは僕ではなく、カメラだと思っています。

僕が見たものより、カメラが見たものを選ぶような感じです。

僕が見たものなんて、たかが知れていますから。













2008年 09月 03日

珈琲が旨い


自分が思い描いていた方向と

違った結果がでることがある。

にもかかわらず、

それも良しと認めたとき、

それは新しい発見と新たな希望へと繋がっていくものだ。

特に芸術は、

まだ誰も体験したことがないものを

求め続ける行為なのだから、

所詮、自分のちっぽけな経験の中から想像することには限度がある。

だから、結果を恐れず、

今日も新しい発見と新たな希望との出会いを期待して、

仕事をする。


珈琲が旨い。













2008年 12月 13日

メモリーは指先に


突然ですが、

脳はどこにあるのか考えたことありますか。

またお前はバカなことを言うと、笑わないでください。

脳はアタマ、頭蓋骨のなかにあるくらい

小学生でも知ってるゾ、と言われそうです。

じゃあ、記憶はどこにありますか。

記憶は脳の中だろうって?

はぁ、やっぱりそうですか。

でもね、最近思うんですよ。

記憶しているはずのものがどこにも見当たらないことが実に多い。

今読んでいる一冊前の本の内容とか、

おととい画廊であった人の名前とか、

ケータイの予備の電池を置いた場所だとか。

つまり、日常のあらゆる場面でそのような事件が多発している訳です。

「事件は現場で起こっているんだ!」


ところが、たまに学校に呼ばれて、

フォトポリマーグラヴュールの細かくも長々とした手順を教えたり、

版画工房でソフトグランドを塗布する時のウォーマーの温度と

エッチングに使用するニードルにはペンシル型のけがきを使うと良いとのアドバイスと

松やに粉末を版面に付着させるためにアルコールランプを外すタイミングと

メゾチントのためのインクの粘度をどのくらいにするとかを、

同時に教えることができるんです。

昨日食べた夕飯のおかずを忘れてしまうような私がです。

慣れない四人の方に同時にです。

あと六人いれば聖徳太子です(笑)。


っで、何が違うのかなって思った訳です。

三日前に読み終えた小説の内容を思い出せない現実と

版画工房でのアタマのさえは、同じニンゲンとは思えません。

考えました。

日が経つと忘れてしまいそうなのでその日のうちに。

わかったんです。

なんてことは無い。

手を使って覚えたことと目で覚えたことの違いです。

ですから、脳は手にあるというのが

わたくしの今日の研究発表でございます。













2009年 04月 26日

版画の魅力


どんな場合も例外はあるが、

タブローに比べて版表現の方が作家の思考がはっきり見える。

たとえば、キャンバスに絵の具をおいていく油彩表現の場合、

そのほとんどが始めにおいた一筆が最後まで残ることは稀である。

もちろんこの場合でも例外はあるけれど。

片や版表現の場合は、たとえば、銅版画であればその最初につけた傷は

刷り上げた時には一番手前に表出する。

版として作られたものはすべてを支持体である紙に

包み隠さず暴かれることになる。

故に、作者の思考の跡は一瞬の「刷り」という行為において

白日の下に晒される訳である。

ここが、タブローとの大きな違いである。

包み隠さず見せてしまう、それが版画である。

作者の思い、性格、はたまた人格のようなものまでさらけ出してしまうのが

版画である。

少しオーバーかもしれないが、そんなところの潔さが私は好きだ。

版画のことを間接表現などと言うことがあるが、

それはシステムの問題であって、

作家の表現が間接的になることではないと思う。

だから、版画は面白い。

そして、恐い。













2009年 07月 17日

たとえ、ディテールが消えても


ディテールまでは再現してくれないような

安価な用紙で試し刷りをしてみる。

もし、その作品が、ある一定の基準に達している作品、

つまり、作者の願いを超えたところに到達しかかっているならば

ディテールを無視しても、作品は語りかけるものとなる。

そのような作品は、完璧な準備のもとに本刷りされたとき、

動かしがたい感動を生む作品となる。


そんな版画による作品を作りたいと思う。













2009年 08月 31日

プレートマーク


銅版画の周りに少し凹んだ所が見えるのをプレートマークと呼んでいます。

あれは銅版をプレス機に通す時、紙やフェルトを破いてしまわないように

あらかじめ版の周りをヤスリで斜めに落としておいた跡なんです。

自分の身を削って、他者が傷つくのを守るなんて男気を感じちゃいます。

でもそんな犠牲的行為も黙っていれば美しいのに、

しっかりと「これは僕の印さ」と見せびらかすのはね。

人間だったら嫌われちゃいますヨ。

少しでも嫌われないようにとお父さんは銅版の周りを出来るだけきれいにしてあげます。

このきれいになった所をビゾーって呼んでいます。

日本では工芸品みたいにきれいにする人がけっこう多いのですが、

欧米人はあんまり気にしないみたいです。

ちょっとぐらい絵の周りが汚れていようが

紙が少し波打っていようが気にしないようです。

それに比べ、日本人のわたくしは武士道に則って

きれいにするわけです。(笑)













2009年 10月 06日

作品の自立



作品はひとたび完成してしまうと

作者の手を離れ、自立する。

第三者によって展示されても作品として成り立つものだと信じている。

またそうでなければならないとも思う。

もちろん例外もある。

たとえばロスコのように生前から自作の展示の際には

他者の作品を隣に置くことを禁じたような場合や

インスタレーションのようなものは別の話である。

しかし、そのようなものでさえいったん作者の手を離れてしまえば

その所有者や美術館のキュレーターなどに任されてしまう。

時には作者の意図とはかけ離れるかもしれない。

それでもよく見える場合はその作品に力がある訳で

もしかしたら、他者が関わった方が良い時がある。

作者は制作と同じくらい展示にも気をつかうものである。

しかし、もう一度言うが、他者が関わった方が良い時もある。

自分のギャラリー空間に自信と誇りを持っているオーナーや、

展覧会の理念をはっきり打ち出している美術館キュレーターには任せてみると

自分では気づかなかった側面を発見することが多々あり、おもしろい。

僕が作っている版画のような場合は尚更である。

額装の段階からギャラリーや美術館が行うことが多いので

それだけで、いつもとは違った表情を見ることが出来る。


何度も書いたが今回横浜での展示はすべて自分のプランで行った。

ヘタな額縁まで自作した。

それはそれで楽しいことではあるのだけれど

自分の意思が強く出過ぎて

見ている人に作品の中に入る隙を狭めているようにも思う。

難しい問題だけれども良質なギャラリーや

生きのいい美術館の展示を見ていると

そんなことをいろいろと考えさせられるわけです。













2010年 01月 28日

舞台監督


作品を作っている時は

ひたすら作っていれば良いのですが

美術館やギャラリーでの展示となると

どのように見せるかを考えなければなりません。

展覧会のタイトルを決め、

役者(作品)のキャスティングや全体の流れを考え、

これしかないという配置を考えます。

舞台監督のようなものです。

舞台となるギャラリーの空間をつかむためには

出来るだけ模型を作ります。

コンピューターで3Dを作るのも良いのでしょうが

やっぱりアナログ世代には模型の方が簡単です。













2010年 08月 14日

ドア



本当に必要なものはそれほど多くはない。

本当に必要なものを見つけることは

それほど難しくはないのだけれど

必要でないものを必要だと勘違いしてしまうことが

結構あるのでやっかいなワケです。


さて、新しい作品づくりに取り掛り始めたのですが

技術が思考に追いつかないもどかしさに、

肉体の疲労を覚えるワケです。

新しいことを始める時に決まっておとずれるちょっとした壁です。

ただ、その壁にある瞬間ドアがつく時があるのです。

そのドアを見つけるために、今日も仕事をしています。













2010年 08月 10日

模型



一点一点の完成度が重要なことは言うまでもありませんが、

会場をどのようにまとめるかはさらに重要です。

個展という場では展示においても

出来るだけ作家がかかわった方がいいかなと思う訳です。

写真は9月から12月にかけての三箇所の会場模型です。

1/20の簡単なものですが

個展の時は出来るだけ作るようにしております。

模型はイメージを固めるためですが、

個展に向けて気持ちを高揚させる意味もあります。

写真手前右が9月7日からのギャラリエアンドウ、

手前左が翌8日からのカスヤの森現代美術館の第二展示室。

そして奥の大きい会場が12月から来年の4月に予定している

横須賀美術館の第8展示室です。

9月の展示プランはほぼ決まりですが、

横須賀美術館は新たな作品も作る予定なのでまだ未定です。

そんなワケで、今年の忙しさは当分続きそうです。














2010年 09月 13日

孤独な作業



基本的に作家同士は必要以上に仲良しであってはいけない。

作品は(自作を含めて)、他の作品の否定の上に制作されなければならないはずだからです。

もちろん、目指すところがかなり近い作家同士と言う場合もあります。

また、ある一定以上の域に達したような作家同士は互いに認め合うと言うことは

往々にしてあることです。

しかし、基本的に作家は孤独なものです。

一つの作品作りに多くの人がかかわってくる映画制作や演劇、

あるいは建築のようなものとはそのあたりが大きな違いかもしれません。

以前に一度、映画制作の現場に立ち会ったことがありましたが

そのチームワークに驚きとうらやましさを覚えたものです。

今日は夕方から孤独な作品作りにかかりました。

まだまだ暑さが続く、変な秋です。













2011年 01月 07日

作品の向こう側



作品の向こうに見えるものがあるだろうか。

表面に何がしかのカタチがあると言う事実を超えた

目に見えない真実が感じられるだろうか

そしてそれらが作り手の技術を超えて現れたとき

おそらく人の心にその作品が確かに届く。













2011年 02月 26日

calling



横須賀美術館で開催中「深遠なるモノローグ」の出品作その5

「calling」フォトポリマーグラビュール

2004年感光性樹脂版に出会う。

この樹脂版は基本的には水と紫外線だけで製版を行います。

紫外線に当たったところは硬化し、当たらなかったところは水に溶ける。

っで、ポジフィルムを使って感光するワケです。

出来上がった版は凹版。

それまでやっていた銅版によるフォトエッチングと同じです。

違いはアッという間に出来ちゃうところです。

ありがたみが薄れるといけなので

このことはあんまり言いたくないのですが、

ホントにアッという間です。

しかし、欠点もあり、版の保存が厄介です。

あんまり長く持ちません。

ですから、エディションは少なめに、

一気に刷ってしまうほうが安心です。

まぁもっともワタクシの作品はたくさん刷るほど、

需要も無いワケでして。

ほんのちょびっとでいいんでやんす。


当時、ちょっとばかり体にハンデを抱えた時期で

腐蝕をしない版制作がどれほど助かったことか。

数あるこの頃のポリマー版の中で唯一

美術館のポストカードになった良い子です。

3月7日にこの子は展示替えされてしまいますので

まだのお方はお早めにいらして下さい。なんてネ。













2011年 03月 23日

小さなエネルギー



子供たちのことがやっぱり気になって

久しぶりに横須賀美術館に行って来ました。

展示室のサイン帳にこんな書込みが、、、。


3月11日

「この時間と空間を大切にしたい。」


3月21日(館が再開された次の日曜日)

「休日出勤の帰りに寄ってよかったです。

エネルギーをもらえました。」


沈んだ心に少しでもエネルギーが与えられたなら

それだけでやってて良かったと、、、。













2011年 03月 07日

Right



横須賀美術館で開催中「深遠なるモノローグ」の出品作その7

「Right」フォトポリマーグラビュール、エッチング、アクワチント

2007年の作品です。

当時、樹脂版のきめ細かさやしっとり感に惹かれて作っていると

今度は銅版画にしか出来ない版の強い主張のようなものが

欲しくなって来ました。

特に、彫刻をモチーフにイメージを固めて行った

TORSOシリーズを計画した時

彫刻の皮膚感覚とイメージの重さのようなものが欲しくて

久しぶりにフォトエッチングを用いてみました。

ところが、銅版では重さのようなものは表現できるのですが

痛々しいほどのデリケートな皮膚感覚のような表現には

なかなか満足出来ませんでした。

樹脂版ではデリケートさは表現出来ましが、

今度は重さに納得が行きません。

そこで、樹脂版と銅版の併用版を思いつき

いろいろ試行錯誤を繰り返し、

技術的なことをやっとクリア出来たのでした。

この作品はどう言うワケか、作家の方々に多くの良い評価をいただきます。

タイトルの「Right」はモチーフに見える右手からでもありますが、

「正しい」とか「これでいいんだ」と言うような

自分に言い聞かせた言葉がタイトルに含まれております。


あっ、この作品は今日展示替えでした。(泣)

明日から始まる後期展示に登場するvoice、water、storyも

同じような意味合いから作られていますので

まっ、いいか(笑)。


気がつけばもう三月、美術館展示も後一ヶ月。

まだのお方はお急ぎあそばせ。ナンテネ。













2011年 05月 27日

横須賀美術館


2010年12月18日から2011年4月3日まで

横須賀美術館にて「藤田修ー深遠なるモノローグ」と題して

所蔵品展示室8で特集が組まれました。

たくさんの方々に見ていただく事ができ、

良い評価もたくさん頂きました。

特集を組まれた作家としては喜ばしいことでしたが

期間中にあの3.11を迎えることとなりました。

あまりにも大きな衝撃にことばを失い、

これから先、何をどうしたらよいのか、

アートに何が出来るのだろうか

このまま作品を作っていけるのだろうか

様々なことで、しばらく心の中が混乱しておりました。

今、私に出来ることは日常を生きることです。

与えられた環境で、自分が出来ることを精一杯する事。

私がしていることなどたかが知れています。

でも、そんなたかが知れていることでもほんの束の間

ほんとに僅かな人かもしれませんが、

良い感情を生むことになったのであれば、

それでいいと思いたいです。

まだまだ被災された地域の方々は非日常を強いられています。

背負われた哀しみを思うと、言葉を失いますが、

それでも、生きていきましょう。


ここに横須賀美術館で行われた特集の様子を

スライドとしてまとめて見ました。

3分ちょっとありますが、

見ていただけるとうれしいです。


ガンバロウ、ニッポン。













2011年 05月 20日

見せない絵


暫く作ることが出来なかった。

昨年の二月から今年の春まで

怒涛のような展覧会が続いたせいでもある。

無性に絵が描きたいとの思いが沸き上がり

工房に籠もって今日、一日で30点程のドローイングを描きあげる。

何故か岩のような人物ばかりだ。

描き手のアタマが硬いせいもある。

いつも、版画などと言う間接表現を持って作品にしていると、

時々、無性に直接筆を持ちたくなる。

出来たものを一気にここに紹介しようかとも思ったが、

やめておく。

描き手の熱が冷めない内に見せてもロクなことがないと知っているから。

人に見せるには半年以上は寝かせないと、本当の判断が出来ない。

暫く、ドローイングを続けたいと思う。

気が向いたらキャンバスに向かうかもしれないし、

版画の新しい挑戦をするかもしれない。

とにかく、新しいことがしたい。













2011年 08月 23日

サイズ



作品のサイズにはミュージアムサイズとギャラリーサイズというのがあります。

ミュージアムサイズとは概して大型のもの

ギャラリーサイズは家に飾れるサイズと言ってしまうと少し乱暴ですが

まぁ、全く間違いでもないでしょう。

もちろん、小さなサイズで美術館に並べることもあれば、

大きなサイズを飾れる家もあるわけです。

では、大きいとはどの程度のものをいうのかと言えば、

おそらく、前に立った時、鑑賞者より大きいもの。

鑑賞者を包み込むサイズを大きいと言うのではと、

ワタクシは理解しております。


今、10月の個展に向けてギャラリーサイズのものを何点か作っています。

12、3点に取り掛かっていますが、

その中から、恐らく最後まで残って行くのは5、6点だと思います。

小さなものですが、小さいから楽かと言えばそうとも言えません。

言うまでもなく、大きさと作品の質とは全く別のものですからね。

ただ大きいだけで内容の薄い作品もあれば

小さくても珠玉の名品というのも少なくないからです。


はてさて、態度は大きいのに気が小さいワタクシの作るものは、、、。

どうなることやら、、、、。













2011年 09月 05日

すご腕職人



時々テレビなどで、町のスゴ腕職人などと言う方が

紹介されたりするのを見ると、

たまらく、カッコいいなと思います。

小さな町工場などで、

その方にしかできない凄ワザを見せられたりした時は、

もう、たまりません。

自分の仕事を振り返り、あそこまで妥協しない自分はいないな、

とか、もっと誇れるような仕事をしなければこりゃダメだな。

とか、反省しきりです。

私の仕事は版画作品作りが主なもので、

アーティストのイメージをもう一人の職人の自分がカタチにするようなお仕事です。

ですから、職人気質もとっても大きな要素なので、

職人と呼ばれる方々に憧れを抱くのです。

ただ、難しいのは職人としての最高の技術を持っていても

アートにはならないし、

アーティストとしてのあふれる情熱だけでは

感動を与える作品は生まれないので、なかなか厄介です。

そこにはイメージをカタチにするブレない強い意思と

雰囲気に流されない冷静な判断力が必要です。


良い作品を作りたい。

ただそれだけです。













2011年 12月 05日

原稿


フォトエッチングやフォトポリマーグラヴュールといった

版画作品を作るには、

必ず元になる写真による原稿があります。

時々、写真も自分で撮るんですか?なんて聞かれることがありますが

不思議な質問だな、といつも思います。

もちろん、すべてワタクシです。

その写真がそのまま原稿通りに版画作品になることはほとんどありませんが

写真の段階で納得しないものは、やはり選びません。

この写真はフォトポリマーと銅版の併用で作品化されたものの一つです。

タイトルはなんでしたっけ?


もしかしたら、原稿のままの方が良かったりネ。

まっ、そのあたりのことは詮索しないでください。(?)













2012年 03月 09日

ドローイング



ここ一二週間、何だかいろいろ忙しく、

ストレスの溜まる日々でございます。

用事と用事の間を縫うように工房に出かけては

ドローイングのようなモノタイププリントを試みております。

っと、言うのも来月に

お世話になっている渋谷のギャラリエアンドウさんで

ドローイングによるグループ展がありまして、

それに向けての制作です。

この話を頂いた時、普通に鉛筆かなにかでドローイングを、

あるいは、制作前の誰にも見せないメモ書きのようなものでも

と、思いましたが、まてよ、モノタイプって版を使ったドローイングだな、とひらめき、

二ヶ月ほど前から、試行錯誤を始めた次第です。

はじめは思いばかり先走って、

イメージをカタチにするための技術が追いついていきませんでしたが

5、60点ほど作って行くと、見えて来ましたね。

あと、2、30点も作れば、そのの中から10点くらいは

人様にお見せできるのではと、期待しているワケです。

普段はね、そんなに作りはしないんですよ。

でもね、どんな時でも新しいものを作ろうとする時は

モノになるまでには、結構かかるのですよ。

そんなこと、ゴチャゴチャ言ったって、写真が無いとわかりませんよね。

それはね、そうなのですが、最初の反応はギャラリーで見たいワケです。

まぁ、そんなワケで、近くになったらまたお知らせいたしますので、

よろしゅうお頼みします。













2012年 06月 17日

ずるいオブジェ



さて、ギャラリーからDMが届いて一週間経ちます。

オブジェ限定の展覧会です。

その展覧会へ出品する作品を作り始めています。

いくつかのプランがあり、あれやこれやと手を付けたのですが、

どうも違うな、っと言う思いがよぎりまして

もう一度仕切り直しです。

オブジェのようなもので気をつけなくてはいけないのは

物質感に頼りすぎることです。

彫刻や、オブジェと言ったものは、

もうそれだけで現実に存在するので、

つまり、絵空事で終わらないので感情移入がしやすいのかなと。

モノがそこにあるだけで現実空間にひびを入れるような仕掛けが作りやすいのです。

はっきり言いましょう。

オブジェはずるい。(笑)

たとえば、河原で拾ってきた石ころをテーブルの上に置けば

もう、そこに一つの物語が立ち上がってくるような

オブジェにはそんなずるさがあります。

ずるいのは性に合わないので、できるだけ、モノに頼らないようにと思い

新たな意味付けを持ってくるようにするワケです。

それでも、やっぱりモノに頼ってしまう作家のサガのようなものが出てくるのです。

さてモノに頼らない、自立した作家を目指そう(?)かな。(笑)













2012年 08月 13日

目とか資質とか


たとえば写真の良さは何を撮ったかではなくて

撮ったものの中から何を選んだかで決まるような気がします。

もちろん、写真の技術的なことに精通しているカメラマン以外の話です。

カメラマンではない多くの人が見せてくれる写真を見ると

その人の持っている「目」がわかります。

絵画や版画と言ったモノですと培って来た技術や、

しっかりとしたコンセプトのようなモノに元々持っている

作者の「目」が隠されてしまうときがありますが

見たモノをただ切り取る作業のような写真の場合、

技術では補えきれない、

元々持っているその人の「目」が大いに関わっているような気がします。

それは時に感性と呼ばれたり、センスと呼ばれたりするような種類のモノです。

まぁ、「資質」とも言い換えられます。

この資質(感性やセンス)が厄介なのは誰も教えてくれないし、

技術書などにも、どうやって会得するかが書かれてないことです。

実はこれらを生まれつき持っている人がアーティストになるのかな

などと思っているワケです。

技術や知識はあとからいくらでもつけることは出来ますが

感性やセンスと言ったものは「後付け」がなかなか難しいものです。


ジャンルは全く違いますが、オリンピックを見終わって

スポーツ選手にもそんなことが言えるのかなとも思いました。

彼女や彼らと同じ量の練習をしても、

誰もが吉田沙保里にはなれないし、

ウサイン・ボルトには天地がひっくりかえっても成れないのです。

まぁ、そう言うワタクシがアーティストとしての資質を持っているかどうかは

甚だ疑問ですが、こればっかりは「思い込み」と言うことも大事な要素でもあります。

世の中、アーティストなどと名乗っている怪しい連中は

みんなこの「思い込み」で生きているようなものなんですわ。

きっとネ。
















2013年 07月 10日

単純な好奇心



作品を作るときに必要なことは

時代性だとか、マーケットだとか、

評価だとか、コストだとか、

発表場所だとか、価値だとか、

いろいろあるけど、もっと大事なことは

新しいものを見たい、作りたいと言う

単純な好奇心だ。

ものを作る前にどうしようもなく湧き出てくる

作りたいと言う、単純な欲求だと思う。















2013年 09月 02日

サンマの塩焼き


写真としてはおそらくお粗末な色だったり

甘いピントだったり、不適正な露出だったり

突っ込みどころがたくさんあるのかもしれませんが

実は、ワタクシ、こういったものが好きなワケです。

ワカルカな〜、

写真について語れるほど詳しくないし、

正直、カメラについても興味なんてほとんど無いんです。

カメラのカタチには興味があるのですが

写りがどうとかはワタシにとってはそんなに重要なことではないのです。

もちろん、記録や再現性を必要とされる場合は別の話ですが。

そういうときはプロのカメラマンにお願いしています。

ワタクシは釣って来た魚をどうやって料理して食べようかということだけに興味があるだけです。


サンマの塩焼きが食べたいと思う今日この頃です。

my blog DAY BY DAY の中から 作品制作に関わるものを抜粋しました。